奈良散歩(高畑の道) 平成16年1月25日曇時々雪
朝食前に宿の周辺をお散歩する。近鉄奈良駅から5分くらいの所にあって、場所的にはとってもいい。興福寺まで歩いて5分ほどの距離。少し歩くともう鹿が、しかせんべい屋さんの近くでうろうろ。
今朝は寒い。鹿は冬毛なのか明るい茶色ではなく少し黒っぽい色をしている。角も切られていて、切った跡が目立っていて痛々しい気がした。そんな人間の気分とはお構いなしに鹿は、あちこちでのんびりと草を食べている。
広い通りを渡るとそこはもう興福寺の境内。五重の塔が見えてくる。
薬師寺の東塔もこの興福寺の塔も、大きな建物がなかった時代には、目印になったことだろう。
旅人には奈良に来たという実感が胸に迫ってくる。




猿沢の池は、修学旅行で来た時の印象が強くて、池の周囲が近代的な建物で囲まれているのにしばしびっくり。
そのまま興福寺の境内を通って宿舎に帰る。午後は新薬師寺と志賀直哉旧邸を見学することにする。
午後、東大寺西大門跡の碑を眺め大仏殿を左手に見ながら、一路高畑への道へ急ぐ。
築地塀が昔のままに残されている。
瓦を壁土の間に挟んだ塗り方の塀もあった。
奈良には京都とは違う時間が流れているような気がする・・・。
一木一草まで洗練された、視線の行き届いた雰囲気の京都とは対照的に、奈良にはゆったりとした時間が流れている。大きな都市なのに鹿と共存して、鹿を大切にしてきた人々と、たくさんの寺院を守りながら生きてきた人々がある。
京都の繊細さと対照的なおおらかさ・・・とでも言うべきものがあるような・・・。
由緒ありそうな家や門を眺めながら、南の方向へと歩いて行く。
飛火野のあたりでは鹿が雪の中で餌を探して何頭か歩いていた。
鷺池の浮見堂を右手に眺めながらしばらく行くと、新薬師寺・志賀直哉旧邸・奈良市写真美術館左の看板が見えてきた。



近くに若草山と高円山を眺めながら、少し歩けばもう郊外の田畑の見えるような街、奈良。
大正14年、志賀直哉は奈良の古い文化財の中で自らの仕事を深めたいと京都の山科から奈良幸町の借家に居を移した。そして自ら設計して高畑に家を建て、昭和4年から13年まで約10年間この家に住んだ。瀧井孝作・小林秀雄・尾崎一雄などの作家がよく訪れていた。足立源一郎・若山為三などの洋画家と、「志賀サロン」ができていたとか。
その後、時代遅れになろうとしている自分を反省し、また子どもの教育のことも考えて、東京へと住まいを移した。
看板には350mと書いてあったのに、なかなか着かない。行き過ぎてしまったのかと不安になる頃ようやく志賀旧邸に到着。
数寄屋造りの簡素な建物だが、茶室やサンルームもあってとっても感じのいいお住まいだった。建物の外側から眺めるようになっていて、サンルームだけは入れるようになっている。現在は奈良文化女子短期大学のセミナーハウスになっている。




この机で名作「暗夜行路」は生まれた。
サンルームがサロンになっていた場所で、古い写真も展示してあった。



新薬師寺
「新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に一幅の絵のごとく止っている。寺までのわずか二丁たらずの距離であるが、このあたりは春日山麓の高燥地帯で、山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた築地に蔦葛のからみついている荒廃の様が一種の情趣を添えている。古都の余香がほのかに漂っている感じであった。私は平原はるかにそびゆる塔をめがけて古寺へまいるのを好むが、高畑のものさびた道筋も捨て難いと思っていた。最初に奈良を訪れたときなどは、わけもなく感動してこの道を徘徊したものだ。古都に辿りついたという思いは、ここへ来て深まった。この第一印象はずっと最近までつづいていたのである。」
亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」の中の「高畑の道」の書き出しの部分である。手許にある本は新潮文庫昭和46年3月の奥付。
この頃から行きたいと思いつつ、今回ようやく来ることができた。浄瑠璃寺へは今回も行けなかった・・・(^^;)。
「新薬師寺の『新』は、新しいという意味ではなく、霊験あらたかなる意である。」とも書かれている。
新薬師寺は聖武天皇の眼病平癒のために、天平19(747)年、光明皇后により建立された寺。
奈良時代には七堂伽藍の整った僧千人もいた大きな寺だった。
宝亀11年(780年)西塔に落雷、火災炎上し現在の本堂だけが焼け残った。
今の境内は、こじんまりとした敷地にひっそりと国宝の本堂が建っており、雪模様のお天気のせいか人もほとんどいなくて静かな佇まいだった。本堂は創建当時は食堂として使われていた建物のようだ。
簡素だが美しく気品の感じられる建物だった。
壁代のような布が正面にあり、白い布が清潔なアクセントになっていて清々しい。
本堂には、本尊は国宝の薬師如来と、同じく国宝の十二神将が安置されている。



国宝の本堂(奈良時代) 観音堂(鎌倉時代)

鐘楼(鎌倉時代)
會津八一の歌碑がある。
ちかつきてあふきみれともみほとけのみそなはすともあらぬさひしさ S.17.4.
(http://www.geocities.jp/surume81_1/hitorigoto/81/ta/ta.html 参照)
法隆寺夢殿の救世観音を詠んだ
「あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ」
こんな歌がしみじみと思い出される。
白毫寺
奈良市写真美術館は新薬師寺のすぐそばにある。迷った末に、白毫寺まで足を伸ばすことにする。
約1キロ、15分ほどの距離である。白毫寺からはそのまま山辺の道にも続いて行く。
途中の道は崩れた築地塀、ロウバイの満開に咲く家の前を通り、小さな橋のたもとや路地にひっそりと石仏がいくつかまとまって置かれて、そこに花が供えられていたりと、今でもなかなか情趣に富んだ道だった。雪が降り、途中の家々の南天の赤い実が鮮やかに美しかった。
高円山の西麓に階段が見えてくる。両側の萩は刈取られて、こざっぱりとした印象。萩の季節は、白やピンクの花が階段の両側から咲き乱れてきれいだとか・・・。
雪を被った境内は美しかった。誰も訪れる人もいなくて、束の間の雪景色を楽しんだ。


萩の階段 庫裡


本堂 階段を上より写す
天智天皇の第七皇子であった志貴の皇子の山荘跡を寺としたのが、最初だと伝えられているお寺でもある。
志貴の皇子は「岩走る垂水の上の早蕨の萌え出春になりにけるかも」が有名な万葉の歌人。
高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 笠 金村
霊亀元年(715)五月、志貴皇子の葬送に際して作られた挽歌も万葉集にある。
志貴の皇子に因んで萩の花が植えられているようだ。


笠金村(犬養孝書)の歌碑とその解説
境内にはたくさんの石仏がある。信濃の道祖神のように二体が一つになったもの、弥勒菩薩・地蔵菩薩・不動明王など。
古いものはお顔が摩耗してはっきり解らないものもある。


境内のお地蔵様 不動明王
帰り道は写真美術館の前を通り、鷺池の浮御堂を見ながら、近鉄奈良駅への道を急いだ。


奈良市写真美術館 鷺池の浮見堂